| 縄文から中世 |
| 現在の文京区に人が住み始めたのはおよそ一万八千年前頃からとされています。 区内には28カ所の縄文時代の遺跡が確認され、本郷台地周辺では貝塚と縄文土器が多数発見されています。 1884年に旧弥生町(現弥生一丁目)で発見された土器は、その発見場所から弥生式土器と名付けられ考古学史上に名を残しています。 鎌倉時代までは原野に近い状態で、わずかな集落があるだけの寒村でした。 中世になり上杉氏の支配下に入り太田氏、豊島氏などの豪族の影響の後、後北条氏の支配に変わり農村として発展しました。 |
| 近世 |
| 1590年徳川家康が江戸に入り城下の開発が進められ、大名屋敷、武家屋敷が置かれます。伝通院、護国寺、根津神社などか建立され次第に都市の一部として発展を遂げます。 江戸時代の中頃には市街化がすすみ、中山道の街道筋に商店が建ち並び商業活動も活発になっていました。 |
| 明治以降 |
| 大半が武家地として占められていた広大な土地は、明治時代になり大学や軍用に転用されました。 幕府の学問所として湯島聖堂、昌平坂学問所がありましたが昌平坂学問所跡には師範学校、女子師範学校が設立されました。 その後東京大学が現在の地に移転を完了し文教地区としての地域性を鮮明にしてゆきます。 また水戸徳川家の上屋敷の庭園が小石川後楽園として、柳沢吉保の下屋敷が六義園として公園になり都心の貴重な緑地となっています。 |
| 明治から昭和 |
| 明治11年の郡区町村編成法により小石川区と本郷区が生まれました。 広大な武家屋敷の跡に大学ができ、大学の周辺に出版社が集まり、それに伴って多くの文人達が集まってきました。 坪内逍遥、森鴎外、夏目漱石、樋口一葉などがこの地を舞台に名作を生み出しました。 その後、急激に都市化が進みました。 昭和に時代が移り、東京砲兵工廠の跡地に後楽園スタヂアムが野球場として誕生します。第二次大戦中は野菜畑や高射砲陣地となりましたが、戦後プロ野球の復活と共に遊戯施設の拡充され、一大娯楽地域として発展しました。 昭和22年、市街地編成として小石川区と本郷区が合併し文京区が生まれました。 区の名称は一般募集をしましたが、応募作品の中には最適なものがなく採用されませんでした。たまたま旧小石川区役所の職員から募集した中に『文京』というのがあり、また旧本郷区役所内での交渉委員会で出された『文京』の名が“文教の府”のイメージと一致して、両区の区議会で決定され採用されました。 |