歴史と文化
樋口一葉の“絶頂”と“どん底”
桜木の宿
東大赤門前の『桜木の宿』跡
一葉会館
法真寺内の一葉会館にはゆかりの品々が展示されています。
 地下鉄の『本郷三丁目』を出て本郷通を東大に向かって歩いて行くと右側に赤門が見えてきます。その向かい側が法真寺。境内の中に入っていくと、なぜか玄関脇に昔懐かしい赤い郵便ポストがある『一葉会館』、ゆかりの品々が展示されています。
 かつては、この法真寺の隣に232坪の土地に45坪の屋敷があり、明治9年(一葉当時3歳)から、明治14年までの約5年をここで過ごしました。当時は父の絶頂期であり幼い一葉は何不自由ない生活をこの地で過ごしています。庭には桜の木があり『桜木の宿』と呼び、後年懐かしんでいます。
伊勢屋質店跡
伊勢屋質店の当時の雰囲気を残す土蔵
 法真寺を出て、本郷通りを少し戻りすぐの横道を右に曲がりました。その後、進めば曲がり進めば曲がりを何度かくり替えしようやく菊坂に出ました。菊坂を下っていくと、一葉が通った質屋『伊勢屋』の跡があります。 万延元年(1860)に創業し昭和57年(1982)の120年以上にわたり質屋を営んでいたそうです。
 一葉が竜泉寺に移ったのちも、その後亡くなるまでつき合いは続き、一葉の葬儀には、主人が香典を持って会葬したと云います。今日的な金銭貸借だけではなく人間的な関係があったことをうかがわせます。
終焉の地
ただ石碑とプレートがあるだけ
丸山福山町
この写真は明治40年頃の丸山福山町から新町の様子です。
(文京区教育委員会・ふるさと歴史館発行『文京町名由来』より)
 菊坂を降りきって左に曲がると白山通りに出ます。白山に向かってしばらく歩くと歩道が広くなり、『紳士服のコナカ』の手前に石碑が見えます。一葉終焉の地。丸山福山町4番地跡(現西片1丁目17−8)です。
 明治27年、竜泉寺を引き上げこの地に移りました。東側の崖から浸み出してくる水が、庭に池を作っていたという。
 この家から、『大つごもり』『たけくらべ』などの傑作が書かれました。
 文学史上に残る一葉の絶頂期であると同時に、執筆の依頼や援助の申し出が現れるなど、経済的にはどん底から這い上がろうとして、ようやくかすかな光が見えかけたときでした。
 こうしてここで“奇跡の一年間”が生まれ、そしてここで明治29年11月、短い生涯が閉じられました。
 終焉の地を記す石碑が、ここに“水の上の家”があったことを伝えてくれています。しかし、今は当時の面影を残すものは何もありません。
 後に裏の崖が崩れたり、第二次大戦中はこの地域が、強制疎開と言う名の取り壊しにあい、戦後は昭和40年代の道路拡幅工事により、全ての面影が消えてしまいました。
一葉の作品の読み方
一葉の作品は“雅俗折衷体”などと言われる文語体で書かれています。 読んでみようと思われる方は、本屋さんの棚に並んでいる新刊の文庫本より 古本屋さんや図書館においてあるような古い本で、漢字にふりがなが振ってある方がいいと思います。 同じ漢字が現代と読み方が違っている場合があるからです。 読み方としては、一文字ずつ確認するように、“ゆっくり”と旧仮名遣いを現代の発音に置き換えながら読んでいきます。 例えば“おい木村さん信さん寄つてお出でよ、お寄りつたら寄つていつても宜いではないか、又素通りで双葉やへ行く気だらう。” これを“おい木村さん、信さんよっておいでよ、およりったら寄っていってもいいではないか、また素通りで双葉やへ行く気だろう” と読めばそのままの語感で楽しめます。 一葉の文学のすばらしさは、森鴎外や幸田露伴も激賞したその文体や修辞にあります。 あえて言えばストーリーはそれほど重要ではありません。 出来るだけ原文に近いもので、その文章そのものを読まれることをお薦めします。 現代語に訳されたものでは、味わいは失われてしまいます。 物語の筋は、人生の不条理を告発するでもなく、戦うでもなく、ただ押し流されて行く。 登場人物達は自分の抱えた問題をほとんど何も解決しないまま結末を迎えます。 これを、冷徹さすら感じるほどの実感表出と、 歯がゆくなるほど遠巻きな描写とをたくみに使い分けることで、 人物に奥行きと存在感を生み出しています。
(2003年10月2日)
地図
今回、取材した周辺の地図
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