歴史と文化
樋口一葉の文体と和歌の塾
萩の舎跡
歌塾『萩の舎』の跡に建つマンション
それを知ってか偶然か、
名前は「みやび」
“誰れ白鬼とは名をつけし、無間地獄のそこはかとなく景色づくり、何処にからくりのあるとも見えねど、逆さ落としの血の池、借金の針の山に追ひのぼすも手の物ときくに、寄ってお出よと甘える声も蛇くふ雉子と恐ろしくなりぬ、・・・”(『にごりえ』五より) この語彙の豊かさと、テンポのよい心地よいリズムと、一葉以外には見あたらない文体です。 同時代文語体の作家として、代表的なのは森鴎外でしょうか。 “この恨みは初め一抹の雲のごとく我が心をかすめて、スイスの山色をも見せず、イタリアの古跡にも心をとどめさせず、中ごろは世をいとひ、身をはかなみて、はらわた日ごとに九廻すともいふべき惨痛を我に負はせ、今は心の奥に凝り固まりて、一点の翳とのみなりたれど、書読むごとに、物見るごとに、鏡に映る影、声に応ずる響きのごとく、限りなき懐旧の情を呼び起こして、幾たびとなく我が心を苦しむ。”(森鴎外の『舞姫』より) この文章を読んでどうでしょうか。同じ文語体でもずいぶんと違うものですね。 私には、鴎外の文章は漢文の読み下しのように思え、一葉の文章は世俗的になった長歌のように感じられます。
萩の舎のプレート
歩道植え込みに立てられたプレート
簡潔な限られた文字と言葉の中でより多くの事を表現する和歌の世界が一葉の文体に息づいているように思えます。 そこで、今回は一葉の文体の基礎になったと思われる、彼女が通っていた歌塾の『萩の舎(はぎのや)』を訪ねてみました。 春日の交差点から富坂を上っていくと左手に中央大学、その先が伝通院の交差点です。左に曲がって安藤坂の下りの途中に、教育委員会が立てた『萩の舎跡』のプレートがあります。 その前にあるのは、切妻の屋根をした5階建てのマンションでした。(上の写真) 素っ気ないただのプレートが、かつての萩の舎の“地理的な位置”だけを示していました。(上の写真です)
炭団坂
今はキレイに改修され、階段になってしまった『炭団(たどん)坂』
最近までかなり急勾配の坂道でした。
踵を返して、かつて一葉が通った彼女の住居跡を訪ねることにしました。歩いてきた道を春日の交差点まで戻り、そのまま真砂坂を本郷三丁目に向かって上がり真砂坂上の交差点をひだりに曲がります。 すぐに見えてきたのは『文京ふるさと歴史館』、そのまま道なりに行くと突然行き止まり、急な下り階段が現れます。 下りてゆくと、昔の本郷の面影を残す町並みがあります。細い道が入り組んであちらこちらに階段や自転車がようやく通れる程度の路地があります。 入って行けば、路地同士が交わった中庭のようなところに共同井戸が今でもあります。
一葉の住居跡
路地の奥まったところにある、一葉ゆかりの井戸
傍らの自転車がここが史跡であるだけではなく、
生活空間であることを語っていました
一葉の住居跡もそんな細い路地を数メートル入ったところにありました。やはり教育委員会が立てたプレートがあり、ここが住居跡であることがしるされています。 このプレートがなければ誰もそんなところとは気が付かないような、何気ない井戸です。今でも(たぶん撒き水などに)使われているらしく水の出てくる口の部分に、ゴミを漉す袋がつけてあります。 しばし佇み、こことあの安藤坂の萩の舎とを通った青春の日を想像してみました。 このあと、胸突坂に出て石坂を通り、白山通りを白山の方に歩き終焉の地も訪ねましたが、今は道路も拡幅されもうそこにはかつての面影を残す物は何もなく、紳士服のコナカの店の脇にプレートが立てられているだけでした。
(2003年9月2日)
地図
今回、取材した周辺の地図

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